最終更新: 2010-05-24T13:30+0900
はじめこの人は、殺される牛を TVなどで見てかわいそうと無責任な感想を口にする消費者を批判しているのかと思ったがどうもそうではなさそう。
私は「自分の手で殺せる生き物」しか食べないことにしています。釣った魚は自分で殺せるから食べます。でも猫や犬を殺せないように牛や豚や鶏も殺せないので食べません。「命を食べる」ということは「命を奪う」という現場にまで自分が責任を持つことだと思っています。
という考え方には敬意を表するし、
鶏でも豚でも牛でも「食べたいから」という理由で自分の手で殺せる人は食べれば良いのです。私はかわいそうで殺せないから食べないだけですよ。
これももっとも。(あ、「自分の手で」か。俺はできないけど気にせず食べるよ。肉を食べるという行為が意味することを「想像する」ことは必要だと思うけどそれだけで満足もしてる) でも現場の人間を非難する次の二つは疑問。
残酷な殺戮が嫌なら転職すればよいでしょう。生き物の命を奪って現金に換えるという罪深い生き方を選択しているのはご本人でしょう。
いったいどこが侮辱なのですか?今まで数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、こんな時だけ殺すことを「かわいそう」だなんて、こんな詭弁は前代未聞ではありませんか。
ちょっと動物に同情しすぎているのではないか。
俺は、動物を食用などのために殺す人間は消費者の代理で殺している、と認識している。お金を払って髪を切ってもらう、野菜を買う、そんなときと同じように、対価を払っているとはいえ自分にない技術・価値を提供してもらうことに感謝こそすれ、罪深い生き方だという見かたは微塵もわいてこない。ともすれば傲慢な考えということになるのかもしれないけれど、その行為は自分が行っている・望んでいると考えるのだ。だからこそ最初に引用した部分には大きく同意した。
それと、何が「かわいそう」なのか想像してみると、人間の血肉になることもない無益な殺生だからかわいそうなんだろう。伝染病の蔓延というマイナスを、ゼロにする益のようなものがないとはいえないけれど、それで納得できるはずもなし。