コードの改善提案はその人の一部への改善提案だ。コードをリライトされたらそれはその人の一部がリライトされたのだ。」という状況は存在する。自分の場合それは細部へのこだわりから生じる。秩序、一貫性、読みやすさ、コードを構成する流れ、背景にある哲学といった、正誤や数値の大小では捉えられないものだ。誤っているという指摘なら受け入れて訂正できる。(計算量のオーダーが変わってくるほど)数値が劣っているというなら受け入れて優れた手法を採用できる。一長一短があるというなら優先順位を議論することができる。そうではない、言ってみれば「どうでもいい部分」こそが実は「どうでも良くない」のだ。要するに、「(結果に対して)どうでもいい部分」こそが「(書いた当人にとって)どうでも良くない」ということ。それは目的に向かって当人が選び歩んだ軌跡であり、目的が達成されている限りは、傍観者が茶々を入れて許されることではないと感じる。■まとめ。「クソの役にも立たない」修正要求が人格攻撃として感情的対立を煽る、と書いた。お気持ちに基づくマウント合戦の始まり。おう、受けて立ってやるぜ。ところがここから、対話を成立させないことにより合戦が始まらないという第二の状況が現れた。「俺の意見が結論だ」である。正誤も優劣もお気持ちもその前には等しく無意味だ。横暴な上司、というのではない。ではこの勘違い野郎は何様か。■なぜか 20190806 ではなくこちらに関連する?「担当編集者さんのご趣味で、ご自身の大好きな、猫を出して差し上げるまではネームが絶対に通りませんでした。ご自身の夢だった獣医師という設定をキャラクターにつけるまで「レズビアンの殺人犯でお嬢様というだけではあまりにも無特徴」「読者に引っかかるものがない」とのことで、掲載の可否を決める会議にすら持って行ってもらえない、という時期が続きました。何度直しても、他にどんな物語を提案しても、獣医師と猫を出すまでは絶対に駄目でした。担当編集者さん個人のご趣味のために作家生命のかかった企画を捻じ曲げて自身の名義で描くのは、とても辛いものでした。」