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脳log
[20150228]
2015年02月28日 (土)
バズワードっぽいなとだけ知っていたが、最近読んだ本にも出てきた。「
「ナラティブ」概念について - Togetterまとめ
」■本は『[単行本] マイケル・S. ガザニガ【〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義】 紀伊國屋書店』。いわく左脳にはインタープリターが存在し事後的に現象(自分の行動)を解釈しているのだと。でも事後解釈であることが全く意識されないのは自分に聞いてみればわかる。脳梁(左右の脳のつながり)を切断した患者は右脳が起こした行動を、耳で聞くか目で見るまで左脳が知ることはできない。右脳と左脳は視野の左右・運動神経の左右の処理を分担してるのだけど脳梁を通した情報交換が阻害されている人間の右脳と左脳に対して選択的に入力と出力を行う(行わせる)と、指示とは異なるちぐはぐな結果が現れる。で、結果に対してなんでそういう行動をとったのかを説明させると、さも当然とばかりに傍目にはこじつけめいた理由を述べる。本人はしごくまっとうな理由で自らの意思に従って行動したと疑っていないが、右脳と左脳の両方が入力を受け取っていれば同じ結果にならなかったのは明らかなのだ。ヒトは左脳が解釈したストーリーを自分の意思で選択した結果であると信じて生きているのではないかと。この文脈でナラティブという語が出てきた。■すっごくテキトーな理解と説明なので正確なところは本を読んでね。一般向けの本だし、インタープリターについて書かれた3章も、脳が中央制御なしの並列分散処理装置だという2章も、個が全体を構成し全体が個に影響するというフィードバックのループが人類を作り替え飼い慣らしてきたという、今読んでる『[新書] 蔵本 由紀【非線形科学 同期する世界 (集英社新書)】 集英社』にも通じる6章も、他の章も、まあ全部面白かった。■だから、Togetterの「承前)《リニアかつ固定された物語》はナラティブではなく《プレイヤーがゲームをプレイすることで事後的にプレイヤーの中に生成されるような物語》こそがナラティブであるとするのは、かなり特殊なナラティブの理解であり、ナラティブの従来の意味を知っている人が戸惑いを感じるのは当然だと思う。→」という発言に対して、むしろそれこそが俺が本から得たナラティブの理解そのものではないかと思った。「ナラティブの従来の意味」を俺は知らないのかもしれないけど、べつにその「独特な」ナラティブはゲームデザイン業界に限ったものでもカタカナ語化する際の誤解や曲解でもないと思う。■「
フロム脳
」とか「
ドラクエ 考察
」とかが実例じゃないの?■(ちょっとそれる) 一から十までわかりやすく書かれた文章には十の価値があるかもしれないけど、フィクションは読者を辞書として利用することで一を十にも百にもして伝えることができるんじゃないかというシャノンの情報理論を超える話。このとき読者に伝わった十や百の物語が俺の考えるナラティブ。(おお、話が戻った)■「narrativeは物語か語りと読んどけばとくにまちがいない」という発言もあるけど、物語るのは誰か?というのが本質なんでは? つまり制作者ではなく個々のプレイヤーであると。■最近読み始めた別の本『[単行本] アンドルー・ゴードン【ミシンと日本の近代―― 消費者の創出】 みすず書房』にもナラティブって出てきた。こんな一般的な語だったっけ?はやってんの?翻訳の必要のないカタカナ語だってみなされるようになっただけ?(<それは間違ってる)■@2013-03-10 毎年毎年飽きもせず年末に繰り返される忠臣蔵だとか、アンビリバボーが現実の出来事をどのように切り取り視聴者の情緒に訴えるかといったところにもナラティブが隠れてそう。たぶんこれはミシンの本での使われ方と同じ。ゲームの方との違いは、散々語られ尽くして強力に作用することが確認された間違いのない方法論だけど、対象が固定されるところ。世界で売るゲームには向かないよ。俺だって見ないしね。韓ドラにはまるおばちゃんの例に見るように、逆に韓国には通用するかもしれないけど、そこまで。
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