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脳log[20191211]



2019年12月11日 (水) 挨拶ができない人の心的メカニズムについて。つまり自分のこと。■単純に怖い。予測不能性に対する怖さ。挨拶をするということは挨拶を返すことを「要求する」行為だという認識が、まずある。中学のときの体育の先生が、卒業に当たって自分宛の色紙に「他人を頼ることを覚えなさい」という意味を込めた漢字を書いてくれた(※込めた意味は受け取るときに聞いた。実はテキトー書いてるかもしれない。でも変容した結果であれ自分に指針を与えたことに変わりはない)。他人が、怖い。要求することも頼ることも難しい。■ひとつ知って楽になったのが、いつも率先して元気よく挨拶をする人が、挨拶を返さずに素通りされてしまった後にふとこぼした「なんだあいつ」というつぶやき。あ、空気のような挨拶ってないんだ、不満に思っていいんだ、という発見だった。挨拶をして返ってこなくてがっかりして、そのときに相手を責めてもいいんだと知って楽になった。■近くにいて助かっている人がいる。その人はこちらが挨拶をしないことを許してくれない人だ。必ずいい笑顔で挨拶をしてくれるし、挨拶を要求してくれる。そういう信頼があるから、落ち着いて挨拶が返せるし、こちらからも不安なく挨拶ができる。非常に助かっている。■どちらでもいいという態度だったり、たまに返ってこなかったりすると、じゃあ俺もいいや、とすぐにサボります。不確定要素に心を乱されたくない(乱されやすい)。■子供の頃は挨拶という儀礼的なプロトコルに従わせられることへの反発もあった。せめてもの抵抗が「おかえり」に対して「おかえり」と返すことだった。■■■多くの人は他者との間で影響を与えたり与えられたりすることを当たり前のこととしているのだと思う。人間って関係ってそういうものだと思う。他者に働きかける(支配する、操作する、感動させるとか)という発想がないもんな、俺は。欲望の「対象」にすることをタブー視するのも同じことなんではないかと思うが、どうだろう。■■■「実はテキトー書いてる」とさっき書いた。長いこと学習机の一番下の引き出しの奥の空間にしまわれていたのを覚えているのだけど、もう確認できないと思っていた。あった(机はもうない)。捨てられないものなのだな。「頼」か「望」だと思っていた漢字は「求」だった。つまり意味は変質していなかった。