遺伝的背景があるとはいえ、ASDの急激な増加の原因として、集団遺伝学的な常識に則れば、たった半世紀の間に集団の中でリスク遺伝子型をもつ者が急激に増えたとは想定しがたい。したがって、発達障害増加の生物学的要因を探索することには大きな意味があると考えられる」 「したがって、~と考えられる。」の接続が理解できなかった。この章は生物学の章であり、筆者はマウスやラットを使った実験の遺伝的背景にすでに言及している。リスク遺伝子の増加が原因ではない「から」生物学的要因の探索に意味がある、とは?と疑問だった。たぶんこうだろうと後で想像したところでは、「したがって、~遺伝子に因らない生物学的要因を探索することには大きな意味があると考えられる。」と解釈すべきだったと思われる。■さらに続く。「生物学的要因」の探索は薬物と環境ホルモンを経て親の加齢へと至る。246ページ。「
上記の父加齢による自閉症リスク増加の原因として真っ先に考えられるのは、精子における新たな(de novo の)遺伝子変異の増加である。」 さっき「リスク遺伝子が集団の中で急激に増えたとは想定しがたい」って書いたのに、「遺伝子変異の増加」を「生物学的要因」のひとつに挙げるの?と二重に疑問だった。たぶんこうだろうという想像では、「新たな(de novo の)遺伝子変異」という単語に他と区別される特別な(分野における専門的な?)意味が付与されているのだと思う。それは直後のこの文から想像した。「
自閉症の遺伝子解析では、親から受け継いだ変異よりも、このような de novo の変異が多く、さらに父方由来が多いことが報告されている。」 「親から受け継いだ」の「親」が指すのは両親を含まない祖父母から祖先のことだけだと考えなければ辻褄が合わない。逆に言えば、高齢の父の精子に生じた(de novo の)遺伝子変異は子に受け継がれ自閉症リスクを増加させると考えているが、「親から受け継いだ変異」ではなく、したがって遺伝的要因にも数えられない、ということ。しかし俺はそんな用語の機微や理屈は知らないし伝わらない。■これに関して筆者の混乱・推敲不足を考えることもできる。あとの方で筆者が、遺伝子的に共通する問題を抱えた若年父マウスと高齢父マウスから得られた仔マウスのあいだの差異を調べたことが述べられており、その要因としてエピジェネティクスを想定している。それは高齢父という遺伝子に因らない環境要因の影響を明らかにする実験であるし、エピジェネティクスは Wikipedia によれば「
一般的には「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域」である」から、疑問を感じた部分に入れ替わって無理なく納まる。■いや待て。「父加齢という環境要因」(255ページ) からは高齢父の精子における de novo の遺伝子変異が除外されていないのではないか。読み直したがたぶんそう。そして de novo の遺伝子変異とは「
生殖細胞の形成過程において生じるDNAのコピーミスが原因となる。すると、親の体の細胞には認められない遺伝子変異が生殖細胞に生じることになるのだ」(246ページ) と説明されている。結局、この筆者が「de novo の突然変異」をどのように他と区別して分類しているのか、その扱いが一般の(つまり自分の)感覚からは乖離していて、そのままは受け入れられない。論理展開の疑問はやはり疑問のまま残った。■これがヒントになるのか謎を深めるだけなのかまだわからないけど、もうひとつ引っ掛かった部分があった。243ページ。「
ここで遺伝学や遺伝子に馴染みのない方に補足すれば、「責任遺伝子」とは、その遺伝子を構成するDNA塩基配列の中の特定の塩基の違いと、疾患や症状の間に有意な相関性がみられることを指す。けっしてASDの方のみが「リスク遺伝子Xをもつ」というようなイメージではない。強いていえば、ASDの方では「遺伝子Xの働きが健常者とやや異なる」ということを意味する」。この部分を一読して、「強いていえば~」はただのごまかしではないかと思ったのだった。つまり遺伝子に対する自分の理解では、遺伝子Xとその変型X′が存在していて、X′を持つ人に自閉症傾向が強いというのなら、それは「リスク遺伝子X′をもつ」と言えるのではないか、それを否定して「
遺伝子Xの働きが健常者とやや異なる」と説明するのはただの言い換えでありごまかしではないか、と思ったのだった。遺伝子というものに対するこの認識の齟齬が他の疑問点を生む根っこだったのかも、と今ちょっと思っている。わからない。ひょっとして「遺伝子」を「ゲノムDNAのうちアミノ酸配列をエンコードする部分」に限定して、そこ「は」他の人と同じだと慰めようとでもしたのだろうか。■「遺伝子多型 - 脳科学辞典」■前から順に読んできて、8章で初めて対象読者から外れた感がある。これまでは自閉症児の親や各分野の初学者がそうだと思っていた。だから非常に読みやすく理解しやすかった。■また、通底することだけど、自閉症を含む発達障害を脳の発生・発達の「不具合」であると屈託なく述べることや、「ASDをはじめとした発達障害の発症率」という文に見られる「発症」という語の使用や、実験対象として人間とマウス・ラットを並べて有利不利を比較してみせることや、「自閉症の遺伝子解析」という語の使用に見られる解析対象に対する想像力の欠如などは、いかにも臨床からも社会からも遠い先生の無防備さだと思う。■「発症」という語の使用に関する補足。発達障害における発症とはどの瞬間なのかということ。発症前・発症後の区別ができるのかということ。たぶん認知症も含めるべきなんだと思うけど、日々関わる人間が見ているのは、その人個人のありようであって、病やその症状を見ているのではないし、また、そう見るべきではないとも思う。病に起因する傾向や行動はあるし、その原因を探ることも意義のあることではある。不都合を病のせいにして救いを得るのは推奨される知恵だと思うし、病を理由にして責任能力を限るのも合理的だとは思う。でもことが脳の領域に及ぶからこそ、黄疸が見られる、細胞が癌化している、などと全く同じように見たものを捉えること、病や原因物質、器質異常を見るあまり人間を見失ってしまうようなことは、あってはならないと思う。本人は、病気や障害を含めて自分であると、受け入れてやっていくしかないのだから(否定すれば人生の部分が失われる)。これが「ASDをはじめとした発達障害」が「発症」するものであるかのような言葉遣いに違和感を覚える理由。妥当に思う代替案は「発達障害であると診断される人の割合」あたり。今考えた。■■■章立ては9章までで終わりだった。第9章は認知科学。8章の人と同じ大学、同じ院の異なる研究科の人が書いていて不安があったが、一冊を通しても特に刺激的な内容で、途中何度も巻末の参考文献を参照しながら(あとで読みたいと思った)、一気に読み終えた。これは認知科学が「
人間や動物の心のはたらきを「情報処理プロセス」として理解・モデル化しようとする科学である」(263ページ) ことと無関係ではないと思う。だってすごく親和的だと思わない?(何と? 答えは268ページに)■巻末の鼎談でも新たな発見があった。それは9章にもあったのだけど、Twitter のあの界隈(※本とは無関係)で見かける議論・用語はこういう考えが背景にあったのか、という前提知識を断片だけど窺い知ることができるものだった。