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脳log[20230524]



2023年05月24日 (水) 2023030920230414 で読んでいた『ひとはどこまで合理的か?』(スティーブン ピンカー)に続けて『ファスト&スロー』(ダニエル カーネマン)を読んでいる。現在は下巻のプロスペクト理論の章で、ベルヌーイの富の効用理論の限界を明らかにするための問いかけへの自分の答えが見事に想定から外れていたので、そういうのが大好きなので、紹介したい。■下巻 94 ページから。「問題3 あなたは現在の富に上乗せして一〇〇〇ドルもらったうえで、次のどちらかを選ぶように言われました。五〇%の確率で一〇〇〇ドルもらう、または確実に五〇〇ドルもらう。問題4 あなたは現在の富に上乗せして二〇〇〇ドルもらったうえで、次のどちらかを選ぶように言われました。五〇%の確率で一〇〇〇ドル失う。または確実に五〇〇ドル失う。」■2つの質問への答えを決めてから読み進めると書いてあったのは、「たぶんあなたはたいていの人と同じように、次のような反応を示すだろう。問題3では大方の人が確実な方を選ぶ。問題4では大方の人がギャンブルを選ぶ。」「あなたは選択を決める前に、問題3では一〇〇〇ドル、問題4では二〇〇〇ドルを「もらった」はずだが、そのことに十分注意を払っただろうか。たいていの人と同じなら、そんなことは気にも留めなかったはずだ。この「プレゼント」は参照点に含まれてしまい、参照点は無視されるのがふつうだからである。」「またあなたは、損得に対する自分の態度が、富の状態の評価に必ずしも左右されないことも知っているだろう。一〇〇ドル得をするのが好きで一〇〇ドル損をするのが嫌いなのは、富の増減の問題ではなく、単に勝つのが好きで負けるのが嫌いだからである。そしてまずまちがいなくあなたは、勝つことを好む以上に負けることを嫌う。」■自分の答え。問題3ではダブルアップチャンス(ギャンブル)を選んだ。問題4では確実な損失を選んだ。どちらも想定の反対だ。どういう心理かというと、問題3ではすでに一〇〇〇ドルというあぶく銭を手に入れていて、ギャンブルを選んでもそれを取り上げられはしないので、追加でもらえなくてもその嬉しさは減らない。一方で確実に五〇〇ドルもらうよりも倍額の一〇〇〇ドルを確率でもらうギャンブルに勝つ方が喜びは大きい。問題4では、すでに二〇〇〇ドルという十分に大きなあぶく銭を手に入れているので、それが確実に五〇〇ドル減ることに痛みは感じない。感じない痛みを取り除くために失う額を倍にするかもしれないギャンブルに参加することは、痛みや悔しさを生み出すマイナスばかりが目立つ。■どうだろう。たぶん国民性みたいな傾向もあるんじゃないかな。自分の答えは日本人の標準だと信じている。だって完全に自分の利益と感情に従っていてこれ以外の答えは考えられないんだから。■とはいえ、得するチャンスを逃したことをあとから知って、本気で損をしたように感じたり、(そこに他者が関わっていたことで)損をさせられたと感じれば腹を立てたりする、自分と異なる考え方をする人が存在することも知っている。自分の感覚ではあると知ってすらいなかったプラスのチャンスを逃したことはただのゼロであり、そこに悔しさはない。事前に知って皮算用をしていたとしても、参加費がゼロならリターンがゼロでも惜しむ対象がない。でもそうは考えないやっかいな(説明ができない)人もいる。■いやまあ、説明だけならできる。本の同じ部分(97 ページ)に書いてある。「金銭的結果の場合には、通常の参照点は現状すなわち手持ちの財産だが、期待する結果でもありうるし、自分に権利があると感じる結果でもありうる。たとえば、同僚が受け取ったボーナスの額が参照点になることは、大いにありうるだろう。」 参照点が異なっているだけなのだ。どうして参照点をそこに置いたの? って疑問がやっぱり理解できずに残るわけだけど。